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炎の美術教育者!瓦田 勝 氏インタビュー

チャオ、コリッコの鎌田です!

今回は、来月開催する作品展の作者 瓦田 勝 氏にインタビュー記事です。形式としてはルポ、すなわち本人の言葉を交えながら、私なりの視点でピックアップしたものです。

現在、画家そして元美術教師でもある瓦田 勝 氏との出会いは、CoRiccoに来店してくれた2019年のちょうど一年前、春だった。ご近所という事もあり、自宅兼アトリエに招いていただいたりして以来ご縁が続いている。交流するうちに、本人なりの熱い哲学を持って、美術教育に取り組んできたという事が分かった。直感と勢いで瓦田氏に「先生の作品展をやりましょう!」と提案してみた。「やりましょう!」というお返事から企画がスタート。瓦田氏は良い意味で先生ぽくなくて、とても気さくで親しみやすい。だが、美術教育の事となると物凄く熱い一面も持っている。その哲学の原点は一体何なのか、どんなテーマを持って取り組んでこられたのか、その辺りに興味が湧いてお話を伺った。

 

教師にはなりたくない、絵描きを目指した

まず意外なのが幼少期の時点で「教師は辛い仕事だな、教師だけにはなるまい」と思っていたという事だ。熱血教師時代の印象がビンビンこちらに伝わっていただけに意外だった。福岡市中央区に生まれた瓦田少年はシティボーイ。祖父が建築会社を営んでいた事もあって、比較的裕福でいい暮らしの幼少期だったそうだ。しかし高度経済成長の最中、祖父の会社経営が傾き、祖母の郷である太宰府へ引っ越してきた。福岡市とのギャップにカルチャーショックを受けた瓦田少年は、太宰府から抜け出すべく福岡市内の中学校へ進学し、それなりに楽しい中学時代を満喫した。

入学した高校は県内有数の進学校。周りがバンバン志望校を決めて猛烈な受験勉強の空気。一方で受験勉強に熱が入らない瓦田青年は志望進路も決まらず。それでも銀行員の厳しい父親から九州大学一択と決められていたそうだ。しかし、受験勉強に身が入らない。何を目指して頑張るべきなのか。唯一、絵を描くことが昔から好きでコンクールに入賞する事も少なくなかった。そういう成功経験から美術系の仕事には興味が向き始めた。「絵描きになりたい。」と父親に相談してみるも「勉強から逃げてるだけだ」と全く認められず。それでも諦めきれずに5回目の直談判。もうどうなってもいいという覚悟で「絵描きになりたいからで美術・芸術の大学に行きたい。」と伝えた。父親は一言、「好きにやれ」と許してくれたそうだ。その翌日のエピソードで「仕事帰りの親父がルノワールとボナールの画集をくれたんだ。僕は本当に嬉しかった。親父なりの精一杯のエールだったんだ。」と瓦田氏は語った。

 

 

本当の意味での美術に出会い、知的探究を始めた予備校時代

それから第一志望の東京芸術大学への入学は叶わなかった。結果的に2年間の浪人期間を過ごし、佐賀大学の特設美術科へ進学した。実は、この浪人期間に東京の美術専門予備校(すいどーばた美術学院)に通ったことが瓦田青年の美術に対する考えに大きく影響したそうだ。その中でも最も大きな出会いは、佐藤一郎先生(東京芸術大学名誉教授)。「美術とは何なのか、本当の意味で考えさせられた。」と瓦田氏は語った。どうしても未熟な分で、絵の描き方つまりテクニック的なことにこだわっていた瓦田青年に、佐藤一郎先生はいつも「瓦田は瓦田の表現をすればいいんだよ」と声をかけていたそうだ。また、予備校生たちの会話では、西洋哲学者や美術的教養の言葉が飛び交っていて、会話についていけないと馬鹿にされるような環境だったそうだ。瓦田青年は当初会話についていけず、非常に悔しい思いをした。それをバネに必死に本を読んだり、美術の知識を付けてまた会話に参加したりして、力をつけていった。予備校の同僚と一緒に夜中から朝方まで色んな分野のことを議論したりした想い出が鮮明に残っているそうだ。

 

美術教師として開眼する 山の学校時代

佐賀大学では絵描きを諦めずに東京方面に行く手段として美術教員免許を取得。相変わらず教師にはなりたくなかったが、絵描きになる環境に適しているであろう東京か神奈川に行くために教員免許をがむしゃらに取った。そして卒業後、晴れて神奈川に赴任されることになった。それは神奈川だが、山奥の中学校だった。

「僕は絵描きになりたい」と赴任先で新任の自己紹介をしたそうだ。周囲は昔から教師になりたくてなったような新任教師ばかりという中で異端の存在だった。むしろ、早く教師を辞めないと生徒たちにも迷惑だと思っていたそうだ。ただし、美術の授業だけは半端なく取り組んだ。つまらない授業をしてはいけない。授業づくりから授業本番に対する熱意がとにかく異常に高かったという事だ。

山の学校では、教師が少なかったので技術の授業も任されていたらしい。そこでエンジンがテーマの授業をする準備のエピソードが凄い。自分がエンジンのことを知らないではいけないという事で、近所のバイク屋にエンジンについて教えて欲しいと頼み込んだ。バイク屋は快諾してくれて、エンジンの解体から組み立てまで徹夜して体験したという。

地区内の新任教師が集まる授業研究会では、教育に対する考えをテーマに大激論を交わしながら切磋琢磨したそうだ。いつしか教師の仕事にのめり込んでいるようだが、絵描きになる事は諦めておらず、とは言えそれで食べていける術もないまま。校長には転任希望の面談でもっと東京に近い都会方面にと希望を出した。

 

授業は表現だ。美術教育に根を張った茅ヶ崎第一中学時代

再び「僕は絵描きになりたい」と新任の挨拶をした。しかし、その挨拶の後で同じ美術教師として勤めていた鈴野武志  氏(故人)に怒りの呼び出しをされた。「君は教師だろ。あの挨拶は何だ。君は教師じゃないか。教師に携わる人間が何で絵描きになるなんて言葉を吐くんだ!」と厳しく説教を受けたそうだ。もちろん反感も持ったが、だからと言って鈴野さんを嫌いだったわけではなく、知識豊富で思考が深い人だと尊敬もしていた。同じ美術教師として「なぜこの授業をやるか」をテーマに議論を交わしながら授業づくりを行うようになった。ライバルの存在も、授業づくりに一層熱が入る茅ヶ崎中学時代が始まる。また、ここの生徒には富裕層が多く、受験などのテクニックに関しては塾や家庭教師に通えば解決するようなものだった。特にませていた中学3年生に対しての授業は下手な授業をしたら馬鹿にされそうで怖かったそうだ。「僕はさらに全エネルギーかけて、授業に挑んでいたよ」と語る瓦田氏。そこで創り上げられて行ったのが「土の授業」というもの。土を見て描くことを通して、土とは自分にとって何か、生きて来た自分、今生きている自分、これから生きていく自分、そして自然に生きるとは何か。このようなテーマで授業をするようになった。なぜこれを行うのかを2時間かけて話しをし、制作へと入っていった。表現者として授業づくりを行っていく事がいつしかライフワークになっていった。「生徒指導」、「進学実績」などと唱えて学校運営側の都合ばかりがまかり通ると、授業の中身はどんどん痩せていき、授業の本質が見失われていく。。そんな事を問題意識として抱え始めていた。

 

東京大学 稲垣忠彦研究室 美術教育実践研究会に参加

そうやって授業づくりに挑んでいた最中、予備校時代にお世話になった佐藤一郎先生からとある会への招待を受けた。それは東京大学で開催されていた美術教育実践研究会への招待だった。形式としては、参加者それぞれが美術教育で実践しているテーマ・内容を発表し、それについて皆でディスカッションをするというものだ。参加していたのは美術科専門でもない小学校教諭が大半だったことにも驚いた。初参加の時点で大変感動した為、職場のライバル鈴野氏にそのことを話した。彼も興味を持ち、2回目から一緒に参加し始めた。「土の授業」をテーマに発表する機会では皆が内容に関心を持ってくれ、より良い授業づくりへの議論を様々に交わす事ができたそうだ。そして、現場教師の存在をリスペクトした姿勢で会を運営し、学問につなげていかれる稲垣忠彦先生(東京大学名誉教授・故人)に対しても感銘を受けた。「授業によって表現を行い、人としてどう生きていくかを考えていく」という信念の集団だったと。

 

高校教師の経験を経て、中高一貫の福岡女学院へ

茅ヶ崎第一中学校で大きな学びを得ていた瓦田氏は、次のキャリアについては未経験の高等学校への赴任を選択した。当時、新設校であった綾瀬西高等学校へ。その高校では当然のように「授業が一番」ということが通じた。実際、高校に入ると時間的な余裕もできた。良い授業をすることで結果的に生徒指導になるということ。生徒指導を上から押し付ける事は、生徒たちの多様性、異質性の保証ができなくなってくる。この辺りの教育哲学も中学と高校、どちらの現場も経験する事で一層深まっていったようだ。ちなみに、この時点で絵描きになるという選択肢は自然となくなっていたそうだ。高校任期2年目で母校の佐賀大学から連絡が入った。それは福岡女学院で美術を教える気持ちはないかという誘いだった。相当に悩むも、行く事を決断した。理由の一つに、中高一貫(6年間)というものに惹かれた。それに実家のことも心配。そして、福岡女学院は瓦田氏の親族も通っていた学校なのでご縁も感じていたということだ。ただし、一点心配だったのは女子校ということ。かつての教え子が開いてくれた送別会で、心配事をこぼすと「先生は、先生の授業をやればいいんですよ」と物凄く心に響く激励を受けたそうだ。

 

 

福岡女学院

こうして12年間離れた地元の福岡へ戻ってくることとなった。中高一貫の私立学校ということもあって、キリスト教の影響であろうかのんびり、ゆったりとした校風。というのも6年間も同じ環境に身を置く者同士が互いに干渉し過ぎると、その後がやりにくくなる雰囲気が影響していたと見る。逆にそれが新鮮に感じるところもあり、もう絵でも描きながら自分ものんびり教師やろうかと思ったと。しかし、ここでも授業づくりに哲学を持ったような同志は見つかる。そして、それに共感した教師が集まってきて、少しずつ瓦田氏にとって心地よく授業づくりにチャレンジできる職場環境になっていたようだ。それは瓦田氏のそれまで培った経験値と魅力があったからこその現象だろう。「女学院ではやりたい事をたくさんさせてもらった」と瓦田氏は語る。授業づくりの他に、福岡女学院の創立120周年にあたって美術教育をテーマにした講演会・シンポジウムの開催も発起人として手掛けた。その際には、神奈川時代の職場の仲間や東大の美術教育実践研究会の時の恩師などが一緒になって開催してくれたそうだ。良き反響を得て、125周年そして130周年と、継続して講演会は開催されていくことになる。こういった実績は、瓦田氏の美術教育哲学が福岡女学院そして女学院を起点に広まっていったことの証拠であろう。

 

学校教員を引退してから2年

瓦田氏が教師を引退して、美術教育における一つの結論は次の通りだ。表現には責任が生じる。感じる心と考える力。表現者、生きている個として立つ。見る事を通して現実と向き合い、目に見えないものを形にしていく。美術からしか真の民主主義は育っていかないのではないかと思う事さえあるほどだ。美術とは何と素晴らしい教科なのだろう。このように美術と民主主義がつながっているという論を唱えている。そして、瓦田氏の教育活動はこれに留まらない。

美術教育の悩み共有  8月3日、福岡市で指導研究会

以下2019/7/31西日本新聞掲載記事から抜粋。

学校の枠を超えて美術教員が交流し、授業の在り方を考える実践研究会が8月3日、福岡市中央区の市美術館で開かれる。
各学校では美術教員の配置はほとんどが1人で、身近に相談相手がいないケースが多いという。
企画した教員たちは「美術は子どもの感性を養う大切な教科。教員が喜びや悩みを共有する場にしたい」と話している。
研究会は2008年12月、福岡女学院中学・高校の美術教諭だった瓦田勝さん(69)の呼び掛けで始まった。
主に小中高の教員が3~4カ月に1度、子どもたちの絵画や彫刻を持ち寄り、指導法について意見を交わした。
県内外から50人近く参加することもあったが、瓦田さんの退職を機に17年8月に休止。
再開を求める声が強まり、現職教員の有志が2年ぶりに復活させることにした。
瓦田さんによると、美術は英語や数学、国語と比べ、単年契約の非常勤講師が多く、授業数は少ない。
「実学重視の風潮が強まる教育現場で美術は隅に追いやられている。
だが、作品を作る過程で、子どもたちは自分や他者と向き合い、考えを深める。
教育に果たす意味は大きい」と話す。今回の研究会でも、子どもたちの美術作品を持ち寄り意見を出し合う。
今後は半年に1度のペースで開く予定。
西南学院中学で美術を教える黒木満さん(56)は「美術教員は学校での孤立感が強い。横の結び付きを築きたい」と語った。


インタビューを終えて

瓦田氏はよく語りが熱くなると言われることがあるそうだが、まさに炎の美術教育者という言葉がぴったり。話を聞いてから、自分の中での間違いなく美術というものへの関心度が高まった。そして、それは何も高尚で手の届かないものではなく、私たち一人ひとりに機会がある営みの一つという事も伝わった。引き続き吸収したい。

 

瓦田 勝 作品展-緑色の風の中で-

瓦田氏との出会いで企画が始まった太宰府・コリッコでの作品展。瓦田氏にとっては自分の住んでいる太宰府で行うことは予想していなかったそうだ。僕から瓦田氏へ「先生の作品展をコリッコでやりましょう!」と声を掛けたら、快く「やってみよう!」とお返事をいただいて企画がスタート。展示する作品は過去に描いてきたものだけでなく、本展に向けて現在制作中の絵も展示する予定だ。作品展のテーマは「緑色の風の中で」だ。瓦田氏がこれまで探究してきた自然のリズム性。それに身体の動きを組み合わせた作品を中心に展示する。

詳しくはコチラ